AI生成ネオノスタルジア動画の謎:なぜ誰もが見続けるのか
近年、生成AIを用いた動画が急増しており、奇妙なほど若々しい顔の青少年が80〜90年代の世界がいかに素晴らしかったかを懐かしむ内容が広がっている。太陽に照らされた住宅街やレトロな自動車の映像に、『Everybody Wants to Rule the World』や『ドンキーコングカウントリー』風の音楽が重なり、AIが描く理想化された過去像が繰り広げられる。しかし、このコンテンツは単なるノスタルジアの再現ではなく、現実とはかけ離れた白人中心で美しく、かつ未来のストレスを既知のように語る架空の世界を提示している。これは歴史を学ぶことなく、過去を美化する「ネオコン的幻想」であり、実際の時代の問題や多様性を無視した空虚な記憶である。 特に、Fred Rogersがトゥパックとラップをしたり、マリリン・モンローをじっと見つめたり、銃の収納庫を披露するといった深層偽造動画が頻発しているが、これらは技術的にも不自然で、OpenAIのSoraモデルによるものと判明している。それでも視聴数は膨大で、Soraアプリの宣伝効果として意図的に拡散されている可能性が高い。 AI企業は、こうしたコンテンツを通じて技術の普及と「創造性の民主化」をアピールしている。しかし、実際には「有名人が酒気帯び運転で逮捕される」「動物が警察に止められる」といった繰り返しのテンプレートが多数存在し、創造性よりも「SNSでウケる」ことに特化したコンテンツばかりだ。これにより、AIは「誰でもアートが作れる」という幻想を提供する一方で、本質的な独自性や深い意味を持つ作品は生まれていない。 こうした動画の対象は、そもそも誰なのか。ZoomersやGen Alpha世代が「脳死(brainrot)」を自認する文化に共感する可能性もあるが、その笑いの根拠は、AI生成キャラクターの正体を理解しないと成立しない。たとえば、レーガン時代の教育者とマリリン・モンローの関係は「性的な発言」として、ホーキングが車椅子で登場するのは「障害者を軽視する」という誤解を生む。 AIの「未来の芸術」を謳う声があるが、現状のSoraのコンテンツは、量はあっても質は乏しく、一過性のトレンドに過ぎない。技術が進化しても、まだ「良い作品」は現れていない。膨大な投資と注目を集めても、視聴者がすぐに飽きるほど同質的なコンテンツが氾濫している。結局、この「AIノスタルジアスロップ」は、技術の規模を誇示するためのマーケティング戦略であり、真の創造性や記憶に残る価値とは無縁の、一時的な騒ぎに過ぎない。
